NOと言えない人達。頑張ってないと存在が確認できない人達。
- 2019.06.24 Monday
- 14:13
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
そんなわけで私としても相変わらず山登り女子は続行中、否、自分で登ってんな、と気づきながらも続行中なわけですけれども、
それでもやらなきゃ死ぬ!ぐらいの緊迫感は昔よりは薄れて来ていると思うんです。
安請け合いする人っていますよね。なんでもはい大丈夫やりますやります!とアクティブっぽかったり、誘われたら断れないとか。
こういう人たちも、私も似ていると思うのですよ。できないと言えない。嫌だと言えない。言ってしまったら拷問にかけられるか世の中全体からシカトされて存在意義がなくなるんじゃないか、ぐらいの気持ちになる訳です。
安請け合いをしたはいいけれども完遂することがほぼない、途中で大体身体的理由を挙げてやらない、みたいな人については、多分やらなきゃ!とは思うけれども体がついてこん、実質嘘ではなくて体に支障が来たりするんだと思います。後はエゴ発動して、やらなくてもいい理由とか現実逃避して当然じゃん?みたいに途中でキレる術も持っている場合もある。
方や私のように完遂する人もいるわけです。言われた以上やらねばならーーん!みたいな戦国武将発動。これは一見美しい、というか社会の中では褒められるわけですが、自分に来るブローは大きく、やったはいいけれども結構いいように使われるバージョンもあれば、常に常に以前の期待以上のものを提供しなくてはいけないと思い込み、どんどん首が締まって消耗していく。
なので両方とも、“そこは別に俺の管轄外じゃないし、踏み込まなくても世界は回る”ぐらいの気持ちが必要で、そのためにはそこで活躍しなくても見下げられることもなければ存在が否定されることもなく、出来ないこと、やりたくないことはLet it goでいいじゃん、と思える自己肯定感の引き上げが必要なわけですね。
私が会社辞めたらどうなっちゃうんだろう、きっと回らなくなるから辞められない、という話も良くあります。でもこれで実際に会社が回らなくなったという事例はほぼない。世の中何とかなってる。ただ、自分の存在がいかにコアであるか、を証明したいという気持ちがそう思わせるだけなんですけれども、
やりたくないけれどもやらないとならない
という、べき、すべき、の世界には、やりたくない⇔でもほんとはやりたい(やってる自分を認めてもらいたい) の綱引きが自分の中にあり、案外それはMy worldなだけで客観的に視ると【どっちでも良い】ことだったりします。
自分の唯一無二性を発揮するのは責任を果たしているかどうか、ではなく、その人らしいかどうか、でしかないのよ。
君じゃなきゃ無理!と思われる場所は、自分の弱さだったり、自分でも気づいていない変わった場所だったり、何か打ち込めることに対して捧げている愛であったりで、ごくごくナチュラルなものなのよね。頑張り屋さんはトップパフォーマンスで一線を画す!みたいになってしまいがちだけど、世の中って進化してるから、どんどん後輩たち、そして技術の進化に抜かれていくものよ。
後はとにかく何か【頑張ってる】ことが無いとやってられない人達。自分の事ですけれども。
何かを犠牲にしてまで頑張ってます!というアピールを手放せない。そうじゃないと怠けている人になってしまう、という強迫観念でもあり、
その頑張ってる姿を大体は誰かに見せたい。多くの場合は両親です。“うちの子、頑張ってる!”と思われたい。
でも、頑張ってることが目的になっていて、最終目的がボヤけていることも多いと思います。“何らかの事で世界に貢献できる自分になる”とか。謎ですよね。なんだ、何らかって、っていう。
目標のないものを頑張るって生き地獄ってか拷問。子供のドリルとか、子供にとって地獄じゃない?目的はあるんだけれども、本人たちがその目的が何たるかがわかってないのに一日数ページ!とかって拷問よ。
一年半ぐらい前にもう一度英語の学校行って学びなおそうかな、とみちよさんに相談したことがあります。するとミッチーは、
いやもうだからそういうのほんといいから、やめなって。いい加減にしなさい、これ以上、それ以上、あれ以上はもういいから、と
結構叱られたw経験があります。そん時は、え、向上しようとしているのになぜそんなに否定?とおもったのですが、
結果的に1年ぐらい通った訳なのよ、学校。いう事聞かずにw。でも行ってみておっしゃってる意味が解りましたね。
もちろん通えば通っただけの知識と経験は積めます。それはかなり役に立ったけれども、
実際問題心の平穏は獲得できなかったし、通う前と後のメンタリティはそれほど変わってない。このままじゃいかん、という思いは相変わらずあります。
でも英語については私はイヤイヤやってるわけではなくFunの部分もあるので、あ、もっとわかるようになった、うれしい!という純粋なポジティ部はある、その部分だけは得られたけれども、その割に金かかったし、労力も半端ない、で、且つそれをどこまでつなげたいっていう目標の拡大にはならなかったな、と。
ああいう職業訓練校に通ってると思うんですけれども、
勉強だけ続けている人っていうのが結構います。かつての自分もそうだったけれども。そのクラスの中でいかにパフォーマンスが上がるか、褒められるか、トップになるか、次のクラスに上がれるかっていうのが気になり、で、いかに忙しい時間の合間を縫って勉強しているか、いかに忙しかったからできなかったのか、みたいなものをアピる人もいる。
頑張ってる【プロセス】が欲しいっていうか。そこに闘魂集中している自分にある意味酔いたい、何もやってない人なわけじゃないことを表現したい、みたいなのあると思う。つまり、ありのままでは不安なのよ。
弁護士とか会計士とライセンスがある仕事はもうそれを取ることが目標でもあり、取れないと仕事に就けないわけですけれども、
英語も資格はあるけれども、あまり重要ではないと思う、結局経験と実績が全ての世界。
下手でもわかってなくてもある程度の知識がついたらちょっと自分の能力よりアンビシャスな仕事を探して無理やり就職できるように実務に入り込むしかないんですよ、私が思うに。でもそれに対して準備ができているかどうか、を自分の中でずーっとタイミングを計っているだけでは前に進まないんじゃないかと思うんですよね。
スピリチュアルカウンセリングにしても同じだと思います。どっかの時点でI am a healerと言わないと始まらない。
そういう意味では両方とも実力もないのに言い切った自分は偉いと思いますけれどもww、やってからいろいろ困ってくるのは当然で、最初の宣言、取り下げたいですと思うこともしばしばありますが、言っちゃった手前進むしかないってか。
自分磨きとかも同じですが、頑張った先に幸せがある、という思考から離れるのは重要よね。いつやるの?今でしょ?って林先生の言う通りだわ。
今でしょ?に踏み切るには今ここにある自分自身、失敗するかもしれない自分の存在も含め、大丈夫OK, やってみなさいよ私、と思う事しかないわよね。私の場合踏み切れたのは、エゴちゃんによる特別意識がうまく作用したとも言えます。これでもうちょっと謙虚ないい女だったら踏み切れてないわね。
若いころは脳内恋愛とか脳内サクセスストーリーとかでお茶を濁して生きてこられましたけれども、40代も半ばになると体現化する時間も限られてくるんでアクション、レッツアクションになってくるのです。
そんなことに対する焦りとかいろんなことが昨日書いたブログの“歯が抜け落ちる”夢などに表れているのかな、と思う。
分かったようなふりして生きてる場合じゃないじゃん?ってとこですかね。
仕事がぽっかりと今手元からなくなり、ちょっとさぼってみた次第です。はい。
ではまだ梅雨が続いて布団がしっとりしてうざいですが、皆さんがんばってー。
ではねー
夏子