今年を振り返りましょうかね。その2 自分を愛するって。
- 2017.12.30 Saturday
- 01:28
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
こんばんは、夏子です。
みちよ姐さんもブログで紹介してくださって。ありがたきことこの上ないわ。
しかも電子版ananのスクショで載っけてくれて。私は写メでみちよさんに、姐さん、こんなん載りました!と報告したところ、
ってかあんた写メがめっちゃブレてて読めないんですけれども。だから電子版見ちゃってるわ?とお返事いただいたんですけれども。
老眼が進んでそもそも曖昧な感じで見てるから写メもブレてるかどうかよくわからん間に撮ってだししちゃったのよね。そんなんでクリア画像でご紹介いただきましてみちよさんありがとうございましたm(_ _)m!
そう。だから続きですけれども、そのエネルギーの循環ってところで、感情が弁のような役割になって引っかかる状態って言うのは皆さんあると思うんですよね。
でも感情があるからこその「感情的」なドラマがあって、それが人間たる最もの特徴なわけでもあります。
全く辛く悲しい思い出もなければ、苦労もせずいじめられもせず、コンプレックスもない人に何か相談をして、
「えー!そんなことってほんとにあるんだー!大変だね♪」という返答を返されてもさぁ。
なんだろなこいつ、と思うにとどまりますよね。
嫌なことがあったり辛いことがあったり、肉体的にも精神的にもやられた経験があってこそその反対側の世界とのコントラストが楽しく、美しく、個性になる。
絶対ひっくり返せるんだと思います。
そのためにはたまった自分でも気づいていない自分の感情に気づいて認めてやるしかないんだと思います。
でもどうしてもそんなネガティブな感情やブラックな自分については、隠してもいないし、感じてもいない、として人は自分を守ってしまいますよね。
しかし、「〇〇さんってほんと何も苦労もなくサラッとうまーく生きてますよね!幸せなんでしょうねー」と言われたら、いやお前に何がわかんだよ、と思うじゃないですか。
または自分の不幸を吐き連ねた後に「そうなんだー。ほんと不幸だね。可哀想な運命なんだねー頑張ってね!私は何もできないけど。」って言われたら、いやそんなことねーし、且つお前に何がわかんだよ、と思うじゃないですか。
その「お前に何が分かんだよ」の部分を自分でわかってやらないとさ。
他人に見せたくないけれども暗にひっそり他人に理解して欲しいその気持がなんたるやを自分で理解してやらないと循環ってなかなか起きないのだと思います。
それにはほんとに吐き出し吐き出し。。これしかないです。言葉で難しかったらボディからでもいい、汗を出す涙を出す、吐く、なんでもいいけれども、抑えている感情の蓋を開いて自分で一つ一つ見てやるしかないです。
その方法についてはどこぞのセミナーに行く必要もないし、何かを買って身につける必要も全くありませんし、霊視が出来たり透視ができたり宇宙と交信したりする必要もまるでないです。そこんところの時代は終わったんだと私は思います。
個人的なライフでいうと、
もう1つは、今年はパートですけれども再び社会に出る、ということをあえてやってみる事でこれは私の場合功を成したな、と思います。
以前はとにかくがむしゃらに働いて辛いだけだった社会人生活を一旦辞めて、
苦手だと思っていた子供と四六時中居る、という生活を数年間やってみて、かつその間にスピスピして煮えてしまっていたところに、
その上でもう一回社会で働いてみるとどんな感じなのかな、ということをやって非常に良かったと思います。
私は昔から社内通訳や翻訳をしばらくやっていましたが、昔はどうしてもプライドで「できないカッコ悪い自分を見せてはならない」と戦線恐々としていたゆえに自分の不出来を認められず環境を責めていましたが、
改めてもう一回やってみて、「あ。本当にできないんだ。勉強しなきゃ。。」ということを改めて受け入れる事で
じゃぁどうしようかな、どういう勉強をしようかな、と始めて謙虚に見られるという。グズグズ言ってねーで努力しないとにっちもさっちもなのね。。ということを43にして気づくという。
後ソフトボールを再びやりだしたのも同じかも。中学生の頃はヘマしたらだめだ、パーフェクトじゃないとダメだ、常にいいプレーをしないとダメだ、思ってやっていたけれども、結果あまりそつもなく花もない選手で終わった当時の自分に再挑戦みたいな感じ。
相変わらず下手は下手なんだけれども、でも「下手なんだから練習するしかないし、練習したらうまくなるかも♪」という気持ちを持てた事で俄然楽しいんですよね。私は来年ピッチャーでマウンドに立ちたいですよ。ええ。まじで。四十肩にならなければっw.
そうか。努力とはこういうことなんだ。と腑に落ちた年でした。
足らないものを見せない為に、埋めるために、自分の壁を乗り越えて輝かしい自分になることを「誰かに見せつけるために」がむしゃらに辛くても悲しくても根性根性ど根性でやることが努力だと思っていましたし、
その辛い、苦しい、でも必死で頑張ってます!のアピールそのものが実は目的だった私の過去の努力は努力ではなく、
あれは拷問だったのだと感じます。拷問は拷問なりにスキルにはなるので無駄ではないんですけれども。
でもちっとも楽しくない。そして計画性があるようでその場その場の「どやさ!」が目的なので努力の方向性も定まってないから、結果的にどっち付かずの感じでもやっと終了する。言い訳ばっかりしてね。
拷問の先に何かを達成をしてもその時の安堵は一瞬です。更に高い山を目指してせっせとワンダーフォーゲル。終わんないですね。
でもありのままの自分を受け入れた上での「もっと良くなりたい」という謙虚さの上の努力というのはその過程そのものが楽しいもんなのね。マジで知りませんでした。
そしてその努力の先の目的がクリアだと、色んなアプローチを人は考える。教えて欲しい、と人に頼むこともあるし、より良い情報を求めて積極的になる。
でも努力という名の拷問を実行している時は孤軍奮闘してこそ、ですからつまんない上に孤独で且つ人は皆自分をバカにしてると思ってますから真っ暗闇ですよね。
そしていわゆるほんとに楽しい努力って多くの人がちゃんとやってることなんですよね。
でも昔の私はその彼等の成果のてっぺんだけを見て、
「うまくやりやがって」とか「才能がある人っていいよね」とか思っていたのはなんと自分の心の貧しいこと。。と痛感しました。
でも考えてみれば、
今回年末に雑誌で掲載していただいたことなどについても、狙ってたことでも何でもないんですよね。
もちろん夢見たことはあります。でもそれに向けて、今までこのブログでゲロ吐き続けていたわけではない。
単にここで自分の不満や鬱憤を垂れ流しながら、そんな自分を皆わかってよと言いながら、自問自答していた先に起こってきた事で、
多分旧ブログと合わせて1000記事ぐらい書いてると思うんですけれども、全く辛いことではなかったです。むしろここがあったから生き延びれた、みたいな。
いろいろ言わなくてもいいことも言ったし、しくじってきたけれども、いちいち失敗をして腑に落とさないとわかんない質なんでしょうねぇ。。なんでこれからもいろいろやらかすと思いますけれども、致し方ないですね。それがどうやら「私」なのですから。
そんなんで中身の濃い1年でした。来年はどうなるかなー。
明日からは夫の実家に里帰りしてまいりますわ。
ホットカーペットの上でゴロゴロしていたら2キロほど既にオーバーしてきましたのでちょっと、いや、だいぶ気をつけないと。
腹筋しながらダウンタウンでもみたいと思います。
本年もブログを読んで下さった皆様、お客様でいらして下さった皆様、ほんとにありがとうございましたm(_ _)m!!
またくだらない事ダラダラ書くねーん♪
皆様良いお年を!!
夏子