典型的な流れ。そしてやっぱり喜びに生きるに帰る。
- 2016.03.31 Thursday
- 00:22
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
こんばんは、夏子です。
腰が痛いわ。今日も横浜まで遊びに行っちゃってもうクタクタっす。
そんな訳でなんだかなにがなんだかの日々ですけど、迷走する私っぷりをただただ迷走している昨今です。
ま、しかし、
今自分が感じているもの、スピリチュアルとノンデュアリティとの狭間の苦悩?みたいなところってどうやら皆経験するってことらしいってのがわかって、
なんだ非常に典型的なことをやってるってのがわかって変な安堵感も。
やっぱり概念の大ヒックリ返しが起こるので、嫌世感とか虚無感とかそういうのが出てくるみたいね。
その辺りを図で解説してるのすら見つけたわ。そんで様々な自己啓発系の人が何年も前からそのことについても書いてるし、特に自分がカッティングエッジでもなんでもないっていう。
多分、ちゃんとわかってないがゆえのグラグラなんだと感じます。
スピリチュアルで自分が感じたエネルギーとか宇宙とか予知そういうものも現実の側面としてある、で、その先ってかもっと大枠のところにノンデュアリティもあるわけで、どうやら何か怖いことだとか全部無駄でしたーとかそういうことでもないっぽい。
この部分で大体つっかかって、ノンデュアリティ一辺倒に行っちゃうか、スピリチュアルにとどまるか、またはどっちもやめちゃうか、みたいなことになる場合が多いらしい。まんまじゃん?みたいな。私もそういう感じの分岐点にいると感じてました。
これらも確証があるような無いような話なんで人によっては???なだけなのも承知の上だけど、
「私って何?」のところにスピマニアやってるとどうしても行っちゃうってのがあるのかもしれません。
幸せになりたい⇒幸せって何?⇒これこれこういう気分になること⇒。。。の最終フォームとして生きるって何?みたいなところに行き着いちゃう。
それもマニア故、と言うか単なる私の趣味とも言えると思います。そうならないと本当の真実に触れられませんよ?とか言うところを周りに言えるような状態になりたいのかって言うとそうでもないんだけど、やっぱり職業としてしまったからには見逃せないみたいにどうもなってるっぽいです。
こないだ友達とLine電話で話していた時に、
まぁ、そんなこともありだとは思うけど、住んでる街で一番おいしいコーヒーを入れられる人とかになりたい!とかのほうがよっぽど人間として真っ当ってか在り方として健全じゃね?とかいう話をしていたんだけど、
まっことそうだと私も思います。でもそっちに行かない自分にフラストレーション。
そこにValueを置けない私の個性ってのがあるのかないのかわかんないけど、結果として深いところまで探求したいというエネルギーがあるのは認めざるを得ないとも思います。
そっちの世界に逃げちゃってるのかな、逃避なのかな、とも思うし、そういう側面も多いにあるのだけど、
ぶっちゃけ私自身そこそこリア充でもあって、もうここまで来ると特に困ったこととか息苦しいこともないし、40代としてやっとけば良かったけどやれなかった!こととかもあんまないんですよね、正直。
でもボロボロになりながら勢いでやっちゃって、その課程は決してハッピーだけではなかったけど経験としてあれ以上のことはあの時は出来なかったことにOKしちゃってる。
そういう自分の玉ねぎ剥がしは散々やり尽くして、もちろんこれからも出てくるだろうけどそこまで脅威もない。
もちろん人間関係でつまづくことも多々あるけど、このままどうなっちゃうんだろう、と思うようなシリアスさもない。
そこまで吹っ切れてるのにまた探求しちゃうのは暇だから?とも思う。それもある。でも暇も逆に言うと与えられちゃってる今を好きなように使ってるというのもあって。
将来の不安は、全く無いわけではないけど、今までのことを振り返っても多分どうにかなる、と勝手に確信してしまってるところがある。他の人から見たらのどう思われてるかはわからないけど、今のところ特に何もないんですよね。
ただ、何もわからない状態の癖に偉そうなことを言うけれども、
悟りだノンデュアリティだというところにどうしても行ってしまうのならそれもしかたがないけど、
そっちを突き詰めちゃうと、人間としての情念みたいな部分はライトになってしまって、陰陽のコントラストが無くなっていくので「凪」の状態にはいられるようになってそれはそれで平穏でもあるけど、
眠れないほど誰かを想ったり、なんとしてでも勝とうとパッションをバーニングさせたり(ルーっぽい)、やさぐれて一人缶チューハイ飲んで一晩泣く。。というようなロマンチッカーな気持が薄れていくのは確かだと感じます。
ダイナミズムが無くなるのは無くなる。。と思う。
今の現状が苦しいからそういう激しい思いを薄れさせたい!と思う人もいるかもしれないけど、それはそれで美しいというかまさに人間の醍醐味でもあるので、
近所のおばさんっぽいけど、でもやってみたいけどやれない(と思ってる)何かを実体験せずに悟りとかノンデュアリティの方向に自ら向かって全部解決しようとするのはやろうと思ってもきっと苦しみが増えるだけで、
そこで「悟った!」となるのは、多分ホントの意味での悟りでもないんだろうと思います。
まかり間違うとそれこそ単なる虚無感に陥ってしまって虚しいだけの半生が残るだけかもしんない。
そこはやっぱりスピリチュアルというか人間心理の範疇で、
ショックを受けて防御体制に入って自分の世界を狭めてしまったのはなぜか。。みたいなところを見て、
自分の身体を意識して身体からのアプローチも使って労って、自分がなってみたいと思った姿にしてあげるってところにフォーカスすることによって、
嬉しい!楽しい!大好き!の時間をじっくり味わうことをしなければもったいない。
どこまでで探求を終わりにするかはその人次第だけど、ただただ辛く苦しいだけの人生で終わらせてなるものか、と思うからこそ皆頑張ってるわけで。
もちろん色んなことがあるから、一筋縄ではいかないけど、
陰があるから陽も光るわけで、そのコントラストが生きがいというか私を生きる!という面白さでもある。
カウンセリングとかセラピーとかは、固くなって自分の世界を狭めてしまって身動きが出来なくなってしまった人を和らげる部分で有効だけど、ノンデュアリティは救済にはならない、全く次元の違う話だと思います。
その2つを融合させようってのは無理があるんじゃないかと今は思ってますけど、でも色んな人が色んなアプローチでやってますからそういうのも今後出てくるのかもしれませんね。正直あのへんも変に徒党を汲んでて薄気味悪さがありますけど。
ともかくですよ、
軽やかに生きる、自分の喜びに従って生きる
というものすごく原点にまたリターンしてくると思います。
そして、バックにその宇宙さんだか大いなるものさんだか、「それ」さんだかわかりませんが、それらが表現する流れに沿っているとそれが非常にうまく回っていくのだと思います。その指針が「喜び」なんだと思うのね。
その大きな流れに逆らおう逆らおうとする力、いや、この現状は私が望んでいるものではない、こんなはずじゃないと流れを受け入れなかったり、私はその大いなるものの一部ではなくて一人の個体で自分で頑張らなくちゃならないんだ!自力しかないんだ!という概念を持つことが苦しみを生んでいる。
だから喜びという指針を持って進むとうまく回転し出すというのはそのまんまその通りなんだと今の私は思います。
そういう意味で皆ガッツリサポートされている。そこは鉄板信頼してOK何だという確信みたいなものはあります。
ま、そんなんでどんどん私自身も探究心が増大してものすごく日常的なことからどんどん宗教家みたいなことを言うようになりましたけど、そうなっていっちゃうのも流れの一つとしてよくあることなんで見逃してくだせぇ。
バイ・ザ・ウェイ、今日古舘伊知郎をテレビでみたら、なんかものすごく晴れやかに。
明日であの番組も終わりのようですね。ほんとにお疲れ様でございました。。貯めこんだエネルギーをどのように表現していかれるのか楽しみです。
それから星野源の歌を聞いてると、この人ってやっぱり「わかっちゃった人たち」なのかな、とぼんやり思ってたんですけど、
なんか色んな情報見てたら私とおんなじような考察をしている人もいて、これまた典型的。
ご本人ほんとにそうなのかわからないですし、多分ほんとに何かをわかった人は言わないんでしょうね。
でもそんなふうに私は感じました。
さ、明日で3月も終わりですよ奥さん。
食い続けたので体重が増え、身体が思いです。。明日からプチラマダンせな。。
では!
アデュー
夏子