スピリチュアルの法則と人間としての感情の折り合い。
- 2020.10.26 Monday
- 17:00
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
あの、ま、そんなんで一人盛り上がって更新してますけれども、思いついたらメモしとこってノリです。
昨日も言った通り、圧倒的自己責任論、ってのがリズブルボーさんの言ってることでもあり、それはどんなつらい状況でもそれを魂レベルで契約してこの世に降り立ってる、みたいなことですよね。
でもそれは人間としては受け入れがたいことですよね。こんな環境選んできてねーわ!ってなる。でも、じゃぁ、その状態で私のせいじゃない、周りが悪いんだ、として生き続けることがつらくないのか?と言ったらやっぱりつらいわけです。同じところにずっとたたずむだけだから。
だから、それは私の選んだ人生なんだからしょうがない、と諦めろ、と言ってるわけではなく、その苦しみを超える、書き換える中に、その人の人生の目的がある。。ってことで、それは人を許すことかもしれないし、愛を与えることかもしれないし、なんかミッションがあるということ。そしてそれがわかるときっとものすごく安堵・納得できるということ。
『自分で選択したんだから、自分で責任を取らなきゃいけない』というと、感情的な抵抗、不条理を感じますよね(だって自分にとっては顕在意識で願ってないしね。)
でも、『自分で選択したのだから、自分で責任を取れる』というと、つまり自己責任を覚悟した上で、それを乗り越えた先には、必ず何か納得するものがある、つまり運命的に誰かにやられっぱなしの無力で不運でかわいそうな私ではない、という希望にも感じることもできるよね。
虐待とか死とかであっても、自分の選んだものであるといわれたら、感情が波立つ。ふざけんじゃないわ!って思う。でもそこに自分の魂として何か目的があったのだ、と思えばたくましく強い魂にも見える。
ものは良いよう、ともいえるし、真実かもしれないし。
たぶん、どっちを信じてもいいのだと思う。納得する方で。
ただ、被害者の意識を募らせるだけでは何も生まないことだけは確かで、
その被害者意識からなにかに気づいて、社会システムを変えることとか、古い感覚を終わらせたりとか、愛ではないものに警鐘を鳴らすとか、
なんかそこにその人の『使命』みたいなものがあるのかもーなんて思うわ。そしてそれがどんな過酷な使命でも、それを納得してやってる人はすごくお目目が輝いているわ。自分を生きているのよ。
リズさんの言葉の中で、受け入れがたいけれどもやっぱそうだよな、と思うシリーズでは、
『自分が誰かを批判しているとき、相手も同じ理由であなたを批判している』
ってのがあるんだけれども、なかなか受け入れがたいわよねw
でも、これはそうなんだろうなって思うのよ。
例えば、あの人なんで男らしくないの?おかしくない?って私が思ってる時、
相手もあの人はなんで女らしくないの?全然だめじゃね?って思ってるとかね。
でもたぶんそうよね、同じもので引きあってるから。でも、誰かを責めている時、自分は完璧だし、そんなこと思われてるはずがないし、思いもよらない、相手がそんなこと思っていい権利もない、ぐらいに顕在意識上は思ってるものね。
私はこんなに我慢しているのに、相手は何にも思ってない、とかもよくあるけれども、
実は自分が我慢している以外の領域で相手も同じぐらいの我慢をしているとか。
なんでこんなに言ってもわからないの?を受けている相手は、
なんでそんなに言われなきゃいけないの?とか。
必ず何か凸凹が合うように、マッチしているというか、対になってるのかもしれん。そういうとじゃぁこういう場合は?こういう場合は?とかいろいろ出てきちゃうけれども、
でも、岡村ちゃんがStep upという名曲の中で語るように、
『Baby, お前はいつも俺のこといろいろ言ってるけどさ、俺みたいなやつがお前のことをどういう風に見ているかちょっと想像してごらん?想像できる?』
ってことでね。私の方が正義!って思ってるときには、相手からの見方、という視点が全くなくなる。でもそれは大きな勘違いというか、慢心でもあり、相手への甘えでもあったりするのよね。
で、つまりその認識のギャップを埋めるのは、『話し合う』ってことだとリズは言うわけなんだけれども、
これがね、一番難しいわよねぇ、特にパートナー同士。。
。
女友達になら言えるけれども、パートナーには言えない、おばあちゃんには言えるけれどもお母さんには言えない、絶対ありますよねそういうの。相手を失う恐怖とか、自分の弱いところを見せて拒否されるかもしれない恐怖、馬鹿にされる恐怖、などなど、いろんな傷があると、近い人ほど、自分とそっくりな人ほど、コミュニケーションって取れない。
ってか、言葉にしなくてもわかるでしょ?ってぐらいテレパシーで会話してるってのもあるけれどもね。でもテレパシーって限界があると思う、人間には。エゴが介入するから。相手の気持ちは受信しているけれども、いや、きっとほんとはこうに違いない!っていう疑いが入るからね。
でもかといってなんでもかんでもオープンならいいのか?って言ったらそれも違うとは私も思うし、自分のものは自分だけのもの、ってしっかりとボーダーを作っておく必要はあると思うけれども、
『話しあう』ってことらしいですよ、奥さん。
話せます?あたしほんとはこう思ってて、こんなことが不安でさみしくて。実はこうしてほしくって、ああしてもらいたくってって。そして自分もこうしたいけれどもどうしてもできなくって、みたいに。
特に日本人とか苦手よね、こういうの。
欧米の方がやっぱりカウンセリングなども日常に浸透しているし、そういう意味では進んでるのかなって思う。
話し合い、つまり耳の傾けあいってことだから、
私はこうなの、あれが嫌なの、これをやめてほしいの、っていう一方的な感情の玉の投げつけあいのことではないのよね。
全部ひっくるめて裸になりあい、みたいな。あぁ、私も怖いわ、そんな場面。むりぽ。
でもそれも無理ぐりやるとしんどいわよね。まずは自己肯定感が上がってこないとそれすら踏み出せないし、また欲求の出し合い、出し合いとかどっちが正しいか?みたいになると喧嘩になるしね。
難しいところよ。だから、自分の弱さとか、自分が願った通りの自分にはなってないけれどもそれをも受け止めることとか、
まずは自分じゃないかしら。
で、恐ろしいことに、そういう準備を整えていると、見事にここぞってシチュエーションが天から提供されるのでね。さぁ、対話しよう!みたいな。そこで勇気をもってのぞむ、って感じでいいんじゃないかしら。勇気は必要だけれども、歯を食いしばって!とかじゃなくて、トンっと肩を軽く押される、みたいな瞬間を見逃さない感じかしら。
なんかごちゃごちゃしてきたけれども、書いてすっきりしたわ?あと四日も平日だわ?うぜ!
ではねーん
夏子
私もここ2、3日の間にまさに夏子さんが書いてる
「相手を失う恐怖とか、自分の弱いところを見せて拒否されるかもしれない恐怖、馬鹿にされる恐怖、などなど、いろんな傷があると、近い人ほど、自分とそっくりな人ほど、コミュニケーションって取れない」を体験しました。
本当に些細なことだったんだけど、彼とのデート中にその出来事が起こって、そのあと話し合いをしていて、自分の内側と対面することがあり「うーー」っと唸っているところ、彼が「自分の思ってること、俺にどうして欲しいのか、包み隠さず言って欲しいし、元気がないときもむしゃくしゃしてたりどんな時も頼って欲しい」ってなことを言ってくれて。
でもあたしが「どういう風に頼っていいのか分からない」って言ったら、
ただぎゅーってすることだけでもいいよ
っつー何ともきゅん♪ってする言葉を投げてくれまして。
で、夏子さんのブログを覗きに来たら
シンクロする内容だったので、
あたしも書きたくてウズウズしつつ
投稿しました!
本当にパートナーって他の人間関係よりも私の中では濃ゆいなぁと実感している秋の日です( ´∀`)
良い彼氏だなー(;ω;)。。そうやってオープンにこっちの心を開いてくれる人、素敵だわん!
ついつい意地はって強がり言ってしまい、それに対して相手も応戦してきたりってあるじゃないですか、でもそこで、僕は本当はこう思ってるよ、って素直に出てもらえると、こちらもおよよ〜って柔らかくなれますよね。私はまだ負けてなるか!みたいのがあってなかなか素直になれないですが、そういう時って戦ってる相手って自分自身なんですよね。。どう頼っていいかわからない、と言えたおけいさんも素敵。素直だわー。。自分に優しくできてるから言えることだと思うー。
コメントありがとうございました〜!
夏子