流れに任せる。そして自分を愛する。再び。
- 2019.03.03 Sunday
- 23:55
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
あー、ちょっと一段落しました。夏子です。こんばんみ。
あわただしかったのですが、一段落。。( ´ー`)。。
新しい仕事が明日からのはずだったんですが、少しキャリーオーバーになりまして、来週以降になり、
でも明日からスーツ着て出勤。。となるとちょっと正直体力持たなかったので、結果余裕が生まれました。
面白いものねぇ。
いい具合に調整されるのですよ。こんな感じで。
ホント流れがあるのだわ。それに任せていればいいのだわ、と思う。みちよさんのブログにもあったけれども、今目の前の状況ってそのまんま、その人に必要なことが起こっていると信じていいのかもしれません。
嫌なことだったとしてもよ。なんか知らんけれども今それで嫌な思いをすることで向き合わされているのと、
その嫌なことが無いと何かに気づけない、次のステップに行けない、ということで全てはプロセスなのだと思います。
なるべく失敗したり恥ずかしい思いをせずに、そしてなるべく効率よくトップパフォーマンスを成し遂げてみたい全国山登り女子の皆さんも多い事かと思うけれども、
途中で足くじいたり酸欠になったり、人に抱えられながら歩いた経験も人生よ。そこでいかに助けてもらったり助けたりが人間味。
決して完全無欠にはなれない自分をそのまんま受け止める、それでいいのよね。
ま、いろいろと感じたことが最近多いんだけれども、
ホントその人の立場になってみないとわからないってこと多いなって思う。昔自分が【け。くだらね】と思っていたこととかたくさんある訳なんだけれども、
この年になって実際にその立場になるとわかるのよねぇ。あの日あの時あの人たちがそうならざるを得なかった状況が。
あの時あんな悪態ついて大変失礼だったなと思う。しかも思いっきり私はそれを顔に出してやっちゃうので、今になってあーぁと思う事たくさんある。でもそれも私のプロセスらしい。こうやってぶつかりながら生きていくしかないのね。
自分を愛するっていうのはこういう自分すら「認める」ってことなのよ。色々あって達観できなくて拗ねて悪態ついていた自分もそんときゃそれしか思いつかなかったことを「認め」「許し」、そしてあの時、あんな失礼な私を許してくれていた周りの人に感謝すること。。よね。
素直になるっていうのかしら。素直が一番ってそういうことなんだろうなって思います。
異性に求めるものとして、「絶対浮気しない人がいい。私だけを大事にしてくれる人がいい。」と誰しも思うものなのだけれども、
でも、男からひどい扱いを受けないために必死に「いい女」になろうとする人がいるじゃない?ピカピカに自分を磨いたり、テクニック的なものを授受しようとしたり。
でもそういう時って、自分不在なのよね。どっしりとした軸が自分にないから相手の行動に合わせてヒヤヒヤしたり束縛してみたり、拗ねてみたり、と。
「いつ裏切られるか、いつ裏切られるか」みたいなものを抱えながら自分磨きをしている人は苦しい。そういう人に限ってものすごい潔癖で、誕生日にはこれしてもらって、こんな言葉が欲しくて、ラインはすぐ返事してもらいたくて。。些細な言葉を深読みして「あれはどういう意味?」とか問い詰めてしまったり。
そのまんまの自分を愛してもらいたい、無条件に大事にしてもらいたいと切に切に願いながら、
等の自分は「今の自分でないもの。もっともっといいもの」にずっと一生懸命なろうとして、もっともっといい女、尽くせる女にならなきゃ、とありのままの自分を認めずに、どんどん鎧を着こんでしまう。そしてその行動が相手を苦しくさせてしまうのよね。
自分が自分を扱ってる通りに人から扱われるのは真実だと思うの。
着飾ってピカピカでなんでもいう事聞く自分にならなきゃ愛されない、と思えばそのまんま、
着飾ってピカピカで何でも言う事聞くから、愛してあげる、って人が現れる。
でもほんとはそうではなくて、ステテコ履いて、家事もめんどくせ、とか思ってる自分だって受け入れてもらいたいし、
ボロボロになってものすごく傷ついたハートで生きてる自分の事も知ってもらいたいわけじゃないのさ。
だから結局今、どんな服着てても何をしていても、これが私で、精いっぱい生きてきた自分であり、そんな自分自身を理解してやってないと、
誰かがそれを認めてくれることは無いのよ。人に頼んでもだめなのよ。
そこんとこがたぶん「エネルギーの法則」なのよ。
精神論ではなくて科学。大いなるものの一部である私たちは全てが「自分から」しか変えられない仕組みらしいと思うわ。
「私は私でこれでいい。」と思えたら、
やっとそのままがモーレツに好きだぁ!!!って人が出てくるんじゃないのかしらね。
世の中見渡してみてごらんなせーよ。
「人としてどうよ?」と思うような人でも、配偶者がいたり、仲間がいたり、パートナーがいたり、家族がいたり。
完璧だから愛されているわけではないのですよね。その人の欠点も良いところも含めて、「その人だから」好きだ、愛している、と思ってくれている人がそばにいる。そのままで愛されている。別にあなたに嫌われてようと愛してくれている人がいて、それはそこで成り立っているし、同様に自分の周りにも自分と友達でいてくれたり、家族だったりパートナーだったりがいる。
でも自分の事が嫌いで、今の自分はダメだダメだと思っていると、
そのままでスキだ、と言ってくれている人が「くだらなく」感じたりもする。自分が嫌っている自分を好きな人なんてくだらない!みたいな感じなんだと思う。今以上の自分に「持ち上げてくれる」気がしない人がくだらなく感じる。
でも、本当に探している人って、持ち上がらなくても、今ここの自分をそのまま受け入れてくれる人なんですよね。
今以上、これ以上を求めている時ほど、「全世界の人に愛される、求められる自分」みたいなものになろうとしてしまうのよね。ああいう人がいい、こういう人がいい、と。しかし、いう割にターゲットが絞られてないというか。絵に描いた王子様みたいな人の事を求めていて、そこにはその人物の「唯一無二性」がなかったりね。
自分を好きになる、というのはすごい難しい。いろんな取り方をしてしまうわ。
嫌いな奴に悪態ついといた、そんな私も私だもの、ありのまま!!!(心ざわざわ罪悪感)
とかでもないのよね、これがまた。
あくまでも人はみな同じで、尊敬とやさしさをもって付き合わなければならない。ならないっつーかそれが当たり前だから。素晴らしいことでもなんでもなく。
でもそこで、自分の感情を抑えてうわべだけで聖人君子をやることがこれまた正解ではない。
失敗をしながらも、きちんとしょんぼりし、きちんと自分の感情を素直に認めて、ありのままを肯定するっていうか。
そして一生懸命頑張ったことは何かしら必ず自分の身になってくる。それがふんわりと言わば自信、みたいなもんになるんでしょうね。
これもまぁ難しいですけれども。でも究極はそういうことなんだろうなって思うわ。
そんな人に皆なろうよならなきゃダメよとか言える立場でもなく、
こんなこと言ってるけれども私も目下叶わぬ欲望とかをメラメラ頭に描いて自分を修行に追い込み人に悪態つく昨今よ。今日もまた怒りに任せてちょっとぶっこんできちゃったわ。
わかっちゃいるけれども止められないのよ。ほんとに。なんででしょうね。
まぁ何とか。。何とかやるわ。
でも今年は思いのほかいろんな動きがありそうだわ。
夏子