母と鬱と回復と。3
- 2017.05.22 Monday
- 13:31
JUGEMテーマ:癒し・ヒーリング
連投よ。連打うちよ。
思いついた順に書いちゃいたいそんな昨今のなっちゃんです、こんにちわ。
そんなわけで、自分の内側を見ないと他人の気持ちはわからないという話になりましたが、
よくスピリチュアルでは
自分以外の何者になろうとしてはならない
自分のすべてを愛し、許容する事で自分の光が前に出て来る
と言うような表現があります。
精神世界というエリアでこのことを考えると滝に打たれて断食でもしないとその境地にならないのでは、とかものすごくサイキックパワーがある人に教えを伝授してもらわないとわからないのでは?とやたらと敷居の高い事で理解し難いもののように受け取ってしまいガチですが、
よく考えたら別にそれほど対して難しいことでもないんですよね。
例えば、ファッションアドバイザー、メイクアドバイザーをしたいと思っている人がいたとします。
丸くてほんわかした日本的な可愛い顔や体型の素材の人なのに、その人がその部分を忌み嫌ってしまうような中傷を過去に受け、自分はケイト・モスばりの細身で研ぎ澄まされたミニマリズムの格好をしないとダメなんだ、と思っていたとします。
身を削ってレタスかじって体に服を合わせるのではなく服に体を合わせるがごとく日々鏡とにらめっこしていたとしたら、
来たお客さんにどんなカウンセリングしちゃうでしょうか。
あなた、そんなに太ってて良いと思ってるの?ひどい髪型だね、まずその天パなんとか矯正しないと。もっと雑誌とか見て研究しないと、目が細いんだから二重にしないと!とかもしかしたら言っちゃうかもしれないよね。
カウンセリングと言う名の説教です。
相手の光であるその人の個性や素材で引き立つところを見ずに、「自分が」引け目に思っている部分を隠しもせずナチュラルにそのお客さんが露呈させている姿に憤慨し、「なんでそれで良いと思っちゃうの?信じらんない。」と憤ると思います。
そんなアドバイス受けたらお客さんはどう思うでしょうか。起こるか悲しむか、または「やっぱりそうか」と自分のダメ出しの再確認をして落ち込むか、はたまた、もっともっと私のだめなところ指摘して!と信者になるかのどれかでしょう。
お客さん、救われませんよね。何れにせよ。
なぜこんなことが起こるかと言うとひとえにこのファッションアドバイザーの人が「ケイト・モス」というとってつけた自分の中の偶像に自分がなる、自分ではない何者かになることに躍起になり、
自分の中の光に気づかず、駄目だと信じてやまないところの補正ばっかりしてしまっているからですよね。
でもエゴというのはそれだけ自分自身の姿を見せなくして、虚構の自信とかプライドとかを押し出してそれで勝負してやる!と思わせるところがあります。そうやって自分をなんとかしてサバイブさせようともしている。
ファッションアドバイザーのみならず、会社員でも同じです。
人の批判ばかりしている人に限って仕事できなかったり盲目だったりしますよね。絶賛お前もな!なんだけど本人は自分はやることやってパーフェクトだ!と信じてやまない。
話を戻して、自分以外の何者かになろうとしている自分に気づかず、自分の隠している思いを無視したままヒーリングをやる側の世界に足を突っ込むと何処かでつっかかってきます。活動できなくなる時がくる。自分の中の???が膨らんで何を言ってるのかわかんなくなる。私も何回も何回もつまづきましたし、これからもそして今もあると思います。
そんな中で絶賛「私はヒーリングを学んで知っている。能力もある」という意識の下、自分の痛いところを軽くさらったぐらいの時、ちょうどみちよさんのヒーラー養成講座の最中ぐらいだったか?と思いますけど、
母に対してその学んだことを伝授して心を開こう、と試みた事もあります。スピリチュアル反抗期という言葉をみちよさんが開発したぐらいの時期だと思うけど。
母にわかるようにその仕組をさらっと話したことがありますが、母は訝しげな顔をして、そんな感情ノートなんか書く体力ない、私は溜まった思いなんかない、苦しいことは乗り越えてきた事で終わったことだし、私の今の状態は病気で心の問題じゃない。
ところであんた何やってんの、変な宗教じゃないでしょうね?と一刀両断されました。
その時は「こんなこともわからんのか!」と憤った思い出があります。でも、今にして考えてみると単なる私の押しつけなんですよね。
ゴリ押しでファッションアドバイザーしてる人と一緒です。これが良いに決まってんじゃん、これを知らないあなたはだからそんな感じになっちゃうのよ、どうして自分の内側という聖なる区域を見ようという勇気もないの?と。
でも、それも絶賛私が「お前もな!」だったわけです。頭で理解していてもハートで理解していない、誰かに言われたことをとって付けてそれを「これぞ真理!」とうたっても伝わらないんですね。
エゴをぶつけるとエゴが必ず返ってきます。私の中でこれを伝授してなんとか母をコントロールしようとしたそのエゴが彼女の中の「お前に何がわかる」と衝突し、正義と悪、ジャッジメントの世界が出来上がったのだと思います。
ちなみにスピリチュアルでもそうやって誰かの言葉をつなぎ合わせて、だから私ってすごいの!とやってる人はたくさんいます。
そういう人の話を聞くと、どれもどっかで聞いた事の話のつなぎ合わせで、で、結局??みたいな感じがすると思います。
つまり、身をもって自分からの言葉で話せるほど向き合える段階ではなく、自分自身を打ち出すのが怖い、のですよね。
例えば例に上げてるファッションアドバイザーの人が、自分の良さを知り、自分に一番似合うスタイルを見つけて、そしてその格好やメイクをしたらどんなに気分が上がって気持ちよかったか、についてカウンセリングができたら、
同じファッションアドバイザーでもケイト・モスのモノマネプロではなくて、その人独自の世界観と愛、優しさや軸、そういったものがたくさんの人をインスパイア出来ると思います。
自分らしさを認めると花開くというのはそういう事で、薔薇じゃないけどたんぽぽでっす(*ノω・*)テヘ!と言い切る軸があれば、そうだよね!たんぽぽ素敵!ってそれだけの話しで、ブランディングどうこうじゃないし、皆に私を認知してほしい!云々関係ないんですよね。
母への勝手にカウンセリングで惨敗した私は、ヒーリングの押し売りほどうざいものはないのだということがよくわかりました。
自分が癒やされたい、不安を払拭したい、楽になりたい、誰かを変えられるパワーを持つことで自信をつけたいために母を利用しているだけだと感じ、こりゃあかんわ、むしろ母は余計起こってふてくされ、私を怪しい人認定するだけで何も効果はなかったです。
他人を変えるには自分から
と言う言葉もあります。でもこれもじゃぁ自分さえ変われば相手は変わってくれるのね♪と安易に受け取られがちですが、そんなタラレバでも実はないんですよね。
なぜ母を変えたいのか?について自分の中の憤りの根っこを見る、という事だと思います。何がそんなに不安なのか、それを読み解いていく作業が必要になってきます。
自分の黒い感情や悲しみ、怒りを解放していく。具体的にはノートに書いたり、うわーとフラッシュバックが来たらシャドーボクシングでもなんでも良いんですが、とりあえず出す、という作業を重ねる。
また母がその間にもいろんな私の悲しみを煽るような発言をしてくれるわけです。あなた本当に子供を可愛がってる?とか、人として礼儀がなってないとか、また大人になってもそんなジーパン履いて、とかいろいろ。
その度にこのクソババァくたばれ!と憤り、物申したくなるのですが、そこはぐっとこらえ自分で吐き出し自己処理し、物理的に距離を起きました。父が大変なのはわかってるから連絡をしない、会いに行かないのは心配だったけど、会いたくないんだから会わないを意識して距離を取っていた時期が長くあります。
そうやってやっていくうちに、自分の中でいろいろと怒られて来たけど、別に私のせいではないな、とか、私も似たような事やってるんだな、とかいろんな気づきがありました。それはスピ友や先輩ヒーラーさん達の助けがあったからでもあり、また夫始め子供らのおかげでもあります。
夫については、妻と言う立場において耐えなければならない事、と世間が言っていることが嘘であるということ、夫婦の意地の張り合いの仕組みを教えてもらいましたし、他にもいろいろあります。
子供については、子育てをしているとどんなに自分は正しく謙虚にやってると思ってもこんなところで子供を追い詰めたりしちゃうんだ−ということがよくわかりました。
母が自分にやってきたことを自分も多かれ少なかれどうしてもやってしまう。それは自分にとっては最善で愛を持ってやってるつもりでもどうしても自分の中で隠してる感情があると相手を叩きつける方法でしか表現できないこともあるのだと言うことへの理解です。
そんな風に数年過ごすうちに、あれだけムカついていた母の発言の一つ一つの出処が分かってきたり、あ、これ拗ねてんなとか愛がほしいんだなとか意地だなとかいろいろ分かってくるんですね。
そうなると母と向き合うのに気負いがなくなってきました。なんかうだうだいっててもあーはい、分かった分かったと、余裕を持って接していられる。
腹の中の感情を整理せずに、「親の面倒を見ない人は親不孝」という責任感だけで介護なんかやっていたらほんとに辛いと思います。ほんとに聞きたくない話もはいはいわかったよ、聞き流して上げたり、まして下の世話などを出来ると言うのはほんとにね、自分がハッピーじゃないと無理ですよ。自分の中の溢れた分でしかほんとの奉仕はできない、それは誠に真実だと私は思います。
私の中の母に対するボーダーと言うか壁が崩壊し、まぁ、いろいろあるけど母ちゃんも大変だったのね、大変なのはわかったけどでももうその呪怨には私はかからないで済むようになったけどね、ぐらいの心境になった時に、
前述していたような誕生日での出来事があったり、母とフランクに話が出来たり、また母から、
「もっとなっちゃん可愛がってやれば良かったね。あなたいつもしっかりしてたからかばってやれなかった。ごめんね」という言葉も彼女の口からはじめてでました。
母の中に自責もあったんだ、と思いました。思ってたけど何を言っても反抗する気の強い娘、父にべったりで自分を省みようとしない娘を、
なんで私になつかないの??と憤り、良かれと思って言ってるのにそれは違う!と自分の意見をことごとく覆す私に対して感じていた寂しさや意地も崩壊し、そして正直な気持ちをやっと話してくれたのだと思います。
それだけお互い愛して欲しい、と思っていただけで、
いろいろなことは意地と誤解と勘違いもあり。家族っていうのはそういう集団でもあると思います。
長くなってきたからまた続けるわ。後日。
インスピレーションのまま行きましょう。